火曜コラム「オススメ書籍」第23回:西林克彦「わかったつもり-読解力がつかない本当の原因」光文社新書
研究や教育を仕事にしていて、おそらく平均的な人よりも文書を読む量は多いと思うのですが、私に読解力があるかと言えば自信がありません。センター試験など大学受験の現代文をときどき解いてみることがありますが、必ずしも高得点が取れるわけではありません。むしろ、受験生の頃よりも下がるような結果に愕然とすることもあります。
もちろん、試験には特有の形式や解答のテクニックがあるので、それに対する慣れも必要ですし、ワナにひっかからないように気をつけなければなりません。つまり、試験の現代文には読解力とは別の力も必要なのですが、それを差し引いても自分の読解力が高くないのではないか、と疑心暗鬼になることがあります。
もちろん、ふだんの読書はスムーズにできます。時々速読のようなこともします。難易度の高い学術書などは読むのも大変ですが、日本語が難しくて分からない、と感じたことは基本的にありません。
しかし、本書を読んで感じたのは、私のそうした認識がどうやら「わかったつもり」の元凶なのかもしれない、ということです。本書では「全体の雰囲気」という魔物が紹介されています。「わかる」というのは安定状態ではなく停滞状態だ、と著者は言うのです。すなわち「よりわかった」へ到る作業の必要性を、本人が感じない状態でもある、ということです。簡単に言えば、あまり深く読むことなく、全体の雰囲気で「わかったつもり」になって満足してしまっているのでしょう。
おそらく、大学受験に出てくる現代文の文章を、試験ではなく普通の読書として読めば、同じような「わかったつもり」になるだろうと思います。しかし、それは「よりわかった」状態ではないため、よりわかっていないと間違えてしまうような問題に答えられないのでしょう。したがって、ふだん読んでいる文章も「よりわかった」状態になるまでしっかり読む必要があるのかもしれません。
しかし、本書を読んでもう1つ思ったのは、文章を書いた人も「よりわかった」状態で書いていない場合があるかもしれない、ということです(文章を書いた方には大変失礼な言い方ですが)。また、同じ文章でも、それに何を求めるのかは、人によって違いますし、同じ人が読む場合でも1回目と2回目では感じることは違ってくるでしょう。書いた人と読む人も目的が違うかもしれません。
したがって、すべてのものに対して「よりわかった」状態にしなければならない、ということでもないと思います。現代人は時間に追われていて、仕事のための情報収集は短時間で効率的に行なわなければなりません。そういう人は、すべてを「よりわかった」状態にするのは不可能だと思います。吟味しなければならない重要な情報、あるいは趣味で読む小説などは時間をかけて、味わう事が良いかと思います。もちろん、そこで「よりわかった」状態への訓練ができれば、通常の効率目的の読書にも活かせるのではないかと思います。本書を読んで、「よりわかった」状態の重要性を理解するとともに、時と場合に応じて緩急を付けざるを得ない、ということも学びました。