「ロックダウンは必要ない?」客観的な分析による施策がもたらすもの
ニューズウィーク日本版によると、欧州30カ国を対象に、ソーシャル・ディスタンスシングに基づく施策が新型コロナウィルス感染症の感染者数や死亡者数の減少にもたらす効果について分析したところ、「ロックダウンは必要なく外出禁止は感染抑制と相関がない」ということが分かったという。
詳しい内容はニュースをご参照いただきたいが、ごく簡単に言えば、感染拡大の抑制に効果があったのは休校や大規模集会の禁止、一部のサービス業の営業停止であった一方、外出禁止や生活必需品を扱う店舗以外の営業停止は顕著な効果が認められなかったというのである。この分析結果から、政策への2つのメッセージを考えてみることにしたい。
まず、個々の取り組みごとに成果が違うということが客観的に明らかになったことは、大きな意味がある。出口戦略の必要性が叫ばれているなかで、何を緩め、何を維持するかを検討しなければならない。「新しい生活様式」なども、そうした考えから出ているのであろう。客観的な分析を根拠にすることで、どの部分を緩和しても第2波の到来を防ぐ(遅らせる)ことができるのかが明確になり、より有効な政策を打つことができるだろう。
一方、もう1つの重要なメッセージとしては、「皆が自粛しなければならないわけではない」ということが分かったことである。例えば、パチンコ店が自粛要請にもかかわらず店を開けていたことに対して自治体や住民から批判が強まっている。自己中心的な意見もあるが、お客さんや店員さんから「三密を避けるなど十分な対策が行われている。なぜパチンコ店だけが悪者になるのか」などという意見も出ている。こうした意見に対する我々の感覚としては、「皆が国全体のため生活維持に必要最小限の外出で我慢している時期に、自分の娯楽のために(=社会が犠牲になっても)パチンコを楽しむのが許せない」というものであろう。そうした心情は、私も理解できる。
しかし、仮に「パチンコ店の自粛が感染抑制と相関がない」という分析が出たら、我々はどう反応するであろうか。パチンコのお客さんは「それ見たことか」となるかもしれないし、多くの国民は活動が制約されているなかで納得できない気持ちが残るかもしれない。つまり、データが出てくることで自粛が必要な部分とそうでない部分が明確に分けられれば、「皆が我慢しているから私も我慢する」という機運が崩れ、逆に「悪いことをしているわけではないのに、データで抑えられるのは納得できない」と先のパチンコ店のお客さんと同じような感覚を持つ人々も出てくるのではないだろうか。
「『皆が我慢しているから私も我慢する』そうした同調圧力のような考え方は古い」という批判もあるし、私もそう思う部分はあるが、現実問題として客観的証拠が出てくるからこそ差異が生じて不満に感じることは容易に想像できる。では、そういう状況にはどう対処すべきか。個人的には客観的なデータに基づいて有効な政策を重点的に行うことは必要だと考えている。そして、仮に我慢を強いられる側に回った場合には、補償や支援などの対象として検討すべきであるし、活動に制約をかけることに敬意を表する必要がある。