日曜コラム「マイ・オピニオン」第1回:「〇〇モデル」への強烈な違和感
新型コロナウィルスへの対応で、地方が独自の対策を打ち出し、強く発信している。神奈川県では症状に応じて対応を分類する県独自の医療体制を構築した。これは「神奈川モデル」と呼ばれ、知事がテレビ番組等で率先して発信していた。また、大阪府では府独自の基準に基づく自粛要請・解除及び対策の基本的な考え方を「大阪モデル」と題して策定した。テレビでも、状況に応じて通天閣のライトアップの色が変化していたのを何度も見かけた(自粛期間中なのと、ニュースに関心があったのでテレビもよく見ていた)。東京都の場合は「モデル」という言葉はあまりつかないようだが、「東京アラート」と呼ばれる再拡大の兆候が表れた際の警戒情報を出すことになり、独自の取り組みとしてはモデルと言えるかもしれない。
ついには、政府が緊急事態宣言を解除する際にも、安倍首相は「日本モデル」という言葉を使って新型コロナウィルス対策の効果を強調した。これに対しては各方面から違和感が表明されており、「政府の対応が良かったから解除できたわけではないのに、首相が胸を張ってモデルと言っても良いのか」といったような意見が見られた。いずれにしても、新型コロナウィルスへの対応で「モデル」という言葉が好んで使われたことは国も地方も同じであった。
多くの政策分野で「〇〇モデル」という言葉は、その分野の政策について先駆的な取り組みを行い各地に広がった時、その起源となった主体を称える意味で付けられる。以前は「〇〇方式」と呼ばれることも多かったが、「〇〇モデル」の方が現代風でかっこ良く聞こえるかもしれない。いずれにせよ、政策は他の国・地方の良い取り組みをモデルにして積極的に取り入れることが望ましい。これは間違いないことである。政策は、民間企業の製品・サービスのように特許や著作権などで守られているわけではないから、模倣しても問題はない。「モデル」という言葉は、特許料や著作権料の代わりのようなもので、最初に導入した主体への敬意の表明で、名誉として与えられるものではないか。
しかし、それにしても今回の「〇〇モデル」の乱立には違和感がある。まず、まだ新型コロナウィルスへの対応が終わったわけではない。どのテレビ番組かは忘れてしまったが、新型コロナウィルスへの対応は野球に例えると、まだ1回が終わったところであるらしい。序盤に、人間の守備で最初のピンチがあり、大量失点をようやく抑えた程度であろう。これから、経済対策やピンチを招かないためのワクチン開発を進めて、最終的に逆転勝利を収めなければならない。これから、逆転したり、されたり、といった展開があるかもしれない(野球ならばそれも楽しいのだが…)。まだ結果が出ていないのに「〇〇モデル」と誇張してしまうと、最終的に失敗した場合にかえって不名誉なモデルになる可能性もある(もちろんそれは望んでいない)。もう少し進展を待ってから名付けてはどうか。
また、名付けるのは自分ではなく周囲ではないか。繰り返すが、「〇〇モデル」と名付けられるのは、多くの国や地方が取り入れて模範となった時にオリジナルとなった国や地域に対して「〇〇をモデルとして取り入れたおかげ」という敬意の表現である。始めたばかりの時期に、自分で「モデル」というものでもないと思う。
もちろん、元地方公務員として「〇〇モデル」と認識されることがいかに名誉なことか分かっているつもりだ。自分で付けたい気持ちも分かる。だが、状況は刻々と変わる。そうした変化への対応も含めて最終的に成功し、「〇〇モデル」が定着することを今は祈るばかりだ。